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『劇場版 GのレコンギスタⅠ Ⅱ Ⅲ』感想。

 

 『劇場版Gのレコンギスタ』はテレビ版『ガンダム Gのレコンギスタ』と比べて良くも悪くもわかりやすくなった。

 良くもと言うのはわかりやすくなったということ。

悪くもと言うのは説明セリフがくどく作品の魅力が損なわれた(ように感じる)という意味だ。

 どちらの意見も理解出来るし、両方を感じている。

 

 私も始めは劇場版を見るのが嫌だった。

なぜならば無料公開されていた劇場版Ⅰの冒頭で追加された説明セリフがくどく、心配になった。テレビ版が大好きだからこそ、劇場版を見れば何か大切なものを失ってしまうように感じた。

しかし実際に視聴してみたら説明セリフがくどいのは冒頭のみで、それ以外の場面はあまりくどくなかった。

 

少なくとも、パッと見た中では違和感がある説明セリフなどは冒頭以外なかった。

 

 劇場版の宣伝として、冒頭のみ無料公開と言うのは『劇場版』が誤解されてしまう原因を作っているように感じる。他にも宣伝では『劇場版』と『テレビ版』を比較して、どこが変わったかを見せるなどが行われているが、『Gのレコンギスタ』の根幹、大切な部分は「変わっていない」ところではないだろうか。

 

 『テレビ版』、『劇場版』ともに宣伝面で予算問題や監督の発言の切り取られ方、枠の確保など、プロデュース面が成功と呼べるのか疑問ではある。

しかし実際完成した作品は素晴らしい、『テレビ版』、『劇場版』含めて、どちらもとても素晴らしい作品だ。

 

 

 『劇場版 Gのレコンギスタ』はわかりやすくなったと言われているが、具体的にどこがわかりやすくなったのだろう。

 私はキャラクターが何を思っていたかをセリフにして言ってくれるようになったことだと思う。

 

 『TV版』から、とても難解だと思う人も、そう思わない人もいた。

感想を見て感じた印象ではわかりやすいと言っている人はキャラ単位で何をしようとしているのか、

わかりにくいと言っている人は組織単位で何をしようとしているのか

を見ていると感じだ。

Gのレコンギスタ』に登場する組織はとても現実的で、複雑だ。

 

『初代ガンダム』はジオンが悪で連邦が正義ではないと言う価値観をアニメにしたと言う評価がされがちだが、

何となくアムロに感情移入して見た時、ジオンが敵で連邦が味方だと見ることが出来る。ジオン好きな人もいるが、彼らからすればジオンが味方で連邦が敵であり、敵と味方と言う発想から抜け出せていない。

『初代ガンダム』本来の意図は、連邦もジオンも味方とは言い難い中でどうやって生きていくかと言うお話のはずだ。

 しかしわかりやすさを優先するあまり、単純に片方が良くて、片方が悪いと言う見方を用意している。そのため安易に見ればそのような感想を抱くし、結果として安易に見ている人が多すぎる。

劇中の演説を聞いて興奮していたり、ジークジオンと叫んだりしているのはその良い例だろう。

 

 

 

『Gのレコンギスタ』ではベルリの目線に立てば、キャピタル・ガード(アーミィ)、トワサンガ、海賊部隊(アメリア)がどれも味方であり、アイデンティティであると言うこともできる。

しかしそのうち、ベルリがどれに帰属意識を持っているのかは、初見では良くわからない。おそらくベルリ本人も良くわかっていない。

そしてベルリの帰属意識とは関係ない、マスクらクンタラ部隊も、ビーナス・グロゥブも、ジッド団も悪役とは感じにくいように出来ている。

 

『Gのレコンギスタ』は『初代ガンダム』とは安易な見方をして、何かが善で何かが悪だとは言い難いように出来ている。

その反面逆に組織単位では「安易な見方」自体が出来ないようになっていると考えることが出来る。このあたりが『Gのレコンギスタ』が難解だと言われる理由だろう。

 

 

しかしテレビ版から一貫して、キャラクター単位で見ると、つまりベルリ、アイーダ、ノレド、クリム、マスク、マニィが何を思っているのか、何を求めているのかがという気持ちがとてもわかりやすく書かれていており、彼らの気持ちに寄り添えるように出来ている。

 

 

寄り添うというのは、キャラクター一人一人が等身大の感情を持っているから出来ることだ。良い人過ぎず、悪い人過ぎない、

 

「自分が他人からどう思われたいかと言う理想」と「現実の自分」のギャップを感じ、それを埋めるために頑張ろうとしている姿を描いている。そして彼らが求めていることが正しいとは描かれていない。

 

普通の売れ筋の作品では「《正しい》主人公の欲が満たされることで、観客まで満たされるような気持ちにする。

 

それは幻だ。「共感できるのが良い、泣けるのが良い、勇気をもらえるのが良い」それらの作品を否定はしない。時にそういうものが必要な時もある。

 

しかし『Gのレコンギスタ』が目指したのはそれとはまったく別のものだ。『Gのレコンギスタ』は見ていて気持ち良くなるアニメだ。映像は綺麗で、動き一つ一つに感情が動かされる凄さがある。バトルシーンはもちろん、人物のシーンも風景だ。

 

象徴的なのはTV版のED、Gの閃光や劇場版ⅢのED Gの映像などでしょう。あくまで私の感性ですが、それ以外の場面一つ一つとっても見ていて心地よくなるような画面になっている。

 

 一方で普通の売れ筋の作品であるような「《正しい》主人公の欲が満たされることで、観客まで満たされるような気持ちにさせる」と言う方式はとっていない。

ベルリの好きな人に振り向いて思いたいという動機、(言い換えれば)欲を視聴者は理解できますが、万人が感情移入は出来るものではない。

アイーダもクリムもマスクもマニィ、ノレドですら彼らの動機、欲を理解できるし、共感も出来るが、何の疑いもなく正しいとは思えない。感情移入して正しいとは思えないものだ。

 

Gのレコンギスタ』に対する否定的な意見として「登場人物に感情移入できない」と言うものもあるが、そのように作っていないので当然ではある。

中には「ベルリがサイコパス」だと言いう人アンチもいます。サイコパスの定義自体あいまいなものなので、否定も肯定も出来ません。しかしそれは「自分が感情移入できないものはおかしい、バカにしても良い」と言っているのと同じだ。

しかしそもそも、巨大兵器に乗って敵兵を次々と殺していく主人公に感情移入出来るように作る方が問題があるとも言える。

 

Gのレコンギスタ』が目指したものは「《正しい》主人公の欲が満たされることで、観客まで満たされるような気持ちにするビジネスモデルからの解放」と

登場人物や登場組織に感情移入、自己投影するではなく、共感、理解するという作品の見方の普及のための作品ではないだろうか。

 

なぜそのような作品が必要なのか、それは作品をどのように見るかが、その人が世界や周囲の人をどのように見るか深く影響を与えるからだ。少なくとも本作の監督富野由悠季は自分が作ったロボットアニメが視聴者にどれほどの影響を与えたのかを感じていたでしょうし、彼を慕い制作に参加した人たちも自分がどれほどの影響を受けたのか自覚していただろう。

私だってアニメや特撮と言った子ども向け作品から多くのことを感じた、それが生き方にまで影響されていた時期が少なくとも過去にはあった。これからのことはわかりませんが、もしかしたら今後も長い間続くかもしれない。

 

 そのような人に大きな影響を与える作品が安易な金儲け主義に走って良い道理がない。正しいとされる人が勝利し欲望を満たされて喜ぶ、そんなもの「ばかり」を正しいと思って見ていれば、その人は「自分が正しいと思うものが勝つこと」ばかり求めるようになる。

 

しかし単純なものはない、それを受け入れられずにいれば、「自分が正しいと思うものが勝っていること」以外の事実が見えなくなり、社会を歪んだものの見方でしか見ることができなくなる。だからこそ自分が何を見るか、何を作るかと言うことは大切なのだ。

 

 

 一つ補足すればそのために作品の表現を規制することは賛成できない。そのようなことをすれば「正しさ」を盾に、例えば、子ためを守るためになどの理由で権力者にとって都合や良いものが消されていくだけだ。エロと子どもを傷つけるためのものの規制と言う理由で権力者にとって都合が良い規制法が出来ることは良くあることですし、そのような愚かな歴史は繰り返してはいけない。もちろんそれとは別に子どもを守ることもとても大切なことだ。

 

Gのレコンギスタ』は難解なので大人向き、中には「富野由悠季の同じ年になった時に見れば楽しめる」と言う人がいますがそれは違う。

決して難解な作品ではない。そう感じるのは「アニメとはこうでなくてはならない」と言う固定観点が強すぎるから起きることであって、それを払ってみれば楽しんで視聴することができる。

むしろこのような作品を幼いうちから見ることで古い固定観点に捕らわれずに物事を楽しむことが出来る。その点で『Gのレコンギスタ』は子ども向け作品と言えます。

 

 

『テレビ版 ガンダム Gのレコンギスタ』は登場人物の気持ちすら、自分から察しに行かないと教えないとわからないものだった。それは登場人物の気持ちを推理、理解することが得意な人と苦手な人の間で作品の楽しみ方に溝が出来てしまうものだった。

『映画版 Gのレコンギスタ』では登場人物の気持ちのみ、わかりやすくなった作品だ。それにより登場人物の気持ちを推理、理解することが苦手な人でも楽しめるようになっている。登場人物の気持ちを理解した上でその気持ちに寄り添うことが出来るようになるのだ。

劇場版もテレビ版と同じように複雑な要素も多いです。しかしキャラの気持ちがわかりやすくなったことですべてがわかりやすくなったような気がしているのだ。

ここら辺は私たちが作品を見る際どこに視点を向けているのかに関係するかもしれない。現実を舞台とした物語を見る時、私たちは現実の世界の仕組みのすべてを理解しているわけではない。しかしだからと言ってそれが難解だとは思えない。そのような現象も関係しているのかもしれない。

 

 『Gのレコンギスタ』で行われたキャラクターの気持ちだけをわかりやすく書くことで、それ以外のすべてがわかりやすくなったように改変する。

そもそも、そのような改変を行うこと自体が希なのであまり聞いたことがない例だが、とても参考になる話だと思う。

 

 

私は『Gのレコンギスタ』のような、作品を見る人のことを思いやった考えた作品がとても好きだ。劇場版も含めて今後の展開がとても楽しみだ。

 

 

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