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『Zガンダム』感想「一握りの天才だけの力では世界は良くすることはできない」

 

 以前視聴した『Zガンダム』の感想を書きます。

それは「一握りの天才だけの力では世界は良くすることはできない」です。

 

Zガンダム』にはたくさんの登場人物が登場します。その多くは天才です。カミーユやクワトロ、シロッコハマーン彼らは普通の人間より優れた力を持っていました。

 

序盤で命を落としたカプリコンやライラも才能がとてもある人でした。カツやジェリドもです。しかし彼らは幸せをつかむことが出来なかった。

 

 天才として花開くことができたカミーユも、しあわせになることは出来なかった。

 

彼らがなぜあのようになったのかと言うのは『Zガンダム』の問いかけの一つだと思います。

 

 

 普通に考えれば「天才だけで何かするのではなく、普通の人たちと一緒に何かするべきだ」と考えるのが自然でしょう。

 実際普通に考えればそのような結論になります。

 

 

Zガンダム』は前作『ガンダム』で「みんなが覚醒するかもしれない」という希望を抱かせながらも、そうはならなかった未来を描いている作品です。

 

 これには現実の『ガンダム』制作後から『Zガンダム』制作に至る様々な過程を描いてい

ると言われます。

 

 

Zガンダム』が描いているものは「普通の人は目覚めないからあきらめろ」と言うことなのでしょうか。

 

 

私は『Zガンダム』から二つのことを感じ取りました。

 

一つは「すべての人が目覚めるかどうかはわからないが、目覚めるとしても時間がかかるから気長に出来ることを続けよう」

 もう一つは「目覚めない人とも一緒に生きていこう」

 と言うことです。

 

 普通ですが、とても難しいことです。

Zガンダム』や後の『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』で描かれたように、相手に期待し、期待したどうしようもない人に裏切られたと思い、辛くなって、追い詰められておかしくなる。そういうことになりがちです。

 

 カミーユ、クワトロ、シロッコハマーンのような優秀な人たちが集まって、新しい世界を作ろうとしても上手くいくことは少ないです。

 

 優秀な人には、現状でも幸せに生きていける人もいれば、現状に不満を持つ人もいます。

 世界を変えようと思うような行動を行う人たちには現状に不満を持つ人もいます。

 不満を持つような人たちは優秀なだけに、生きているなかでたくさんの悲しみや憎しみを持ちます。

 優秀だからこそ、カミーユのように頑張って、いつの間にか歪んでいきます。

 

それは一部の人が社会の病気を吸い込んで、社会を浄化していると言えるかもしれません。

 毒を吸い込んで、狂った人が何か恐ろしいことを起こした際、まるでその個人が悪いかのように言われます。

 しかし見方を変えれば、その個人が狂うまで、社会の病気を吸収してくれたおかげで、他の人が普通に生きてこられたとも言えます。

 

 

どんなに能力がある人でも、社会への憎しみや、怒りがある限り歪んだものの見方をしてしまいます。

 むしろ理想的な何かを実現するには、歪んでいな人、言い換えれば、追い詰められてない人材、言い換えれば社会性がある人が必要です。

 

 カミーユらは能力はあっても歪んでしまった。それはカミーユらが悪いと言うより、そういう社会だったからです。

むしろカミーユらが歪むまで頑張ってくれたおかげで、他の人が歪まないでいられた。

最近は歪んだり、怒ったり、ひねたりしている人が、「良くないもの」として社会からミュートされる傾向にあるそうです。

しかしそれはとんでもないことで、その人たちが苦しむまで頑張ってくれたおかげで今があるのに、都合が悪くなったら、関わらないようにするというのはあまりに無責任な話です。

 

ならばカミーユらはどうすれば良かったのでしょうか。その回答は劇場版『新訳 Zガンダム』で行われます。

 『新訳』ではカミーユは、『テレビ版』と同じくシロッコを倒したものの、シロッコに魂を持っていかれていません。

 これはカミーユが社会の病気を吸収しすぎるのをやめた。すべてを自分に責任だと思わなくなったからできたことです。

 『テレビ版』人類の未来を背負うニュータイプとして思い荷物を背負っていました。しかし劇場版ではそれとは違う、周囲の人を大切にするニュータイプとして生きようと思い、生き延びることが出来ます。

 

 

 

私たちが生きる現実でも良い人ほど様々なものを背負うとして心を壊し、時に死に急ぎます。

 その結果、悪い人が出世して力をつけていく、嫌な世の中です。

 しかし、それに引っ張られ過ぎると、自分も壊れてしまう。

気長に出来ることをするしかありません。

 

 

 

 私は「優れた人の導きによって社会を良くする」と言う考えには同意できません。

 

なぜならば人の言うことを無条件で聞く人などは、悪い人の言うことも聞くからです。

 例えば子どもに良い人になりなさいなんて言うのは絶対にしてはいけないことです。そんなことをしたら悪い人にとっても良い子になってしまいます。

 

 のちの富野作品でば『ターンAガンダム』は、どことなく優れた人によって導かれることで世界が良くなるかのような希望を持っている節がありました。

 

 しかしそれ以降の作品ではそのような要素は薄いです。

 

 

『Gのレコンギスタ』では作中の世界でも、現実の世界でも「長く待て」と言われています。

 

 

この作品が評価されるのには時間がかかる。この作品が好きな人はそれまでは世界を見放すなと。

 

 

Zガンダム』と言う作品は『ガンダム』が自分の思った形で社会に受け入れられなかった悲しみから出来ている面があります。

 

しかし『Zガンダム』と言う作品は『ガンダム』のたった7年後に作られたのです。『ガンダム』の人気が未だ衰えないことを考えると『ガンダム』が理想の形で社会に受けいれられなかったと悲しむのは早すぎたのかもしれません。

もちろんそれは富野由悠季を初めとするたくさんの人たちの努力のおかげです。

 

一握りの天才によって導かれる形では世界は悪くなります。

なぜならば導かれる必要があるような世界の現状は良い状態ではありません。それが長く続くのは「良くない状態」の方が得をする人が権力を握っているからです。

 

誰かから導かれて社会を良くしたいと思う人など、「社会が良くない状態であることで得をする人」によっておかしな方向に導かれるのがオチです。彼らは100%善意で社会を悪い状態のままにしようとします。

 

そうならないためには社会の形自体が変わるもしくは、社会の普通の人が少しずつ賢くなる必要があります。

 

そのための手段の一つとして作り手が作品を作り、読み手が楽しむことはとても意味があることだと思います。

Zガンダム』や『Gのレコンギスタ』のようなをすぐれた作品であればなおさらです。

 

 社会が良くなるために行動しつつも。例え行動したところで社会が全く良くならなくても自分で背負い込まずに、気を長くして生きていきたい。

 それが私が富野由悠季作品から感じ取ったことです。

 

 

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